GEISAI#12

2OO9年、アートシーンの今を観る1991年。私がアート界にデビューした年は、日本のバブル経済が完全に崩壊した年でした。バブル経済の華やかな頃、日本の現代美術シーンのみならずあらゆるアートシーンはある種の絶頂感がありました。NYやロンドンのクリスティーズ、サザビーズのオークション会場にはバリっとした背広を着た日本人画商が多く見られ、数十億円の価格で印象派の巨匠の作品を日本のクライアントに引っぱって来ていました。

私が在籍していた日本画の世界はその最たるもので、30歳代そこそこで描いた絵は売れまくり直ぐに家が建ち、中堅から巨匠と呼ばれるエリアの作家達の作品はゴッホやピカソと並ぶような価格で国内流通をしていました。

現代美術界というのも、この時期に確立されたと言っても過言ではなくICA名古屋とか東高現代美術館、HeinekenBeerがスポンサードしたアートギャラリーや、HEARTLANDBEERもスペース持ってて展示会等行なっており若かった私はトークショウやら展覧会に参加してたりオープニングパーティーに潜り込んだりしていました。

商業施設パルコも日本グラフィック展、後のアーヴァナード展を展開し日比野克彦さん等のスーパースターアーティストが登場したのもこの時期でした。 その時期の私と言えば売り込みの日々。 ものすごい数の現代美術系ギャラリーが青山界隈に雨後の筍のように沸いて出て来ておりそういうギャラリーに自分の作品を持って行っては、ボロクソに言われ、意気消沈し作品制作に自信をなくしていました。日本初の国際的なアートフェア、NICAFが開催され、アキライケダギャラリーが、幕張メッセで単独で行ったアートフェスティヴァル的な興行、ファルマコンもこの頃でした。

私がデヴュー出来た時期はそうしたバブルな思考が沈静化しつつあった頃。 今までに派手にあったアートポート事業が次々とたたまれた時期でした。

しかしその頃に、現代美術の可能性に気がついた画商らは動き始め小さいながらも、 手弁当で展覧会を作り始めていました。 美術館も、手探りながらも、アーティストの支援をしようと 新しい試みが数々行われ始めていました。 谷間の時代。 なにもルールが決められず、不安な中、暗中模索が続く時期。

そんな時に新人はデヴュー可能なのです。 そして私は新人アーティストとしてデヴュー出来たのです。

今、時代的には不況、不況と謳われていますが、 あの当時に似ていて、一見金の廻らない、最悪な時期。

でも、違うんです。 若くて無名でお金も無く、やる気だけのある人々にとってはチャンスだらけのフロンティアな瞬間。 時代の亀裂の中に、自分の居場所を無理クリねじ込めるどさくさまぎれの変革期なのです。

(GEISAI#12 パンフレットより)